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その1からつづく
六
午後の訓練に整列した全員は満十九歳と二十歳で、昭和十九年十一月から十二月に大学・専門学校の学業途中から召集された学徒兵と、同じ年齢で現役召集された中等学校卒のものばかりであった。その年から急に満二十歳の徴兵を繰り上げられ、一年早く軍隊に現役召集されたものと合わせて二年分の現役兵が入隊した。それにつれて幹部候補生も二倍になった。もともと幹部候補生は志願制度であり、中等学校以上を出ていても将校になりたくないものはあえて志願しなくてもよかった。しかし、この時点では下級幹部が不足していたので、志願を拒むことはできなかった。
現に私と同じ内務班であった松本健一は初め幹部候補生を志願しないといっていたが班長に呼ばれ、必ず志願するように指示された。
同じ内務班の古年兵はそれを聞きつけて痛めつけた。
「おい、帝大の松本。帝大卒ではおかしくって軍隊の将校なんかになれないのか、貴様死ぬのが恐いのか、卑怯者」
と罵られ、往復ビンタを喰らった。それでやむなく志願して今にいたっている。
ここにいる松本も私もそのほか全員が軍曹の階級で、間もなく予備士官学校に入学して将校になる道を進む身であった。
土手の上に上がった白井隊長は次のような訓示をあたえた。
「本土防衛はいずれにしても、海岸線から上陸する米軍を迎え撃ち撃滅することである。海中に入って水際で撃退することである。そのための水泳訓練である。気合いを入れて取り組め。遊びではないぞ」
隊長は背が高く、精悍な顔つきで、体育で鍛えた肉付きをしていた。いつも乗馬用の鞭を指揮棒のかわりに使い、何かあると鞭で自分の長靴を叩いて叱咤した。一列横隊にならんだ候補生に号令した。
「泳げないものは一歩前へ」
しぶしぶと十一名が前へ出た。
「なんだ貴様ら、それで将校になれるか、非国民め、そのまま立っていろ、俺が泳げるようにしてやる」
そこに長身の痩せ細った松本が目立った。たいていが都会出身でプールや海水浴の経験が少ないものばかりであった。私のように野育ちで、海岸近いものは幼いときから海は格好の遊び場だった。泳げないなんて言うのは軟弱だと思っていた。松本とは同じ班で二人だけが幹部候補生だったので、競い合ったり、同時になぐられる仲間だった。私は泳げない松本をなさけないやつだと蔑んだ。
泳げるものは水泳の準備運動をして岸辺に立った。
「向こう岸まで往復。用意、かかれ」
隊長は土手の上から指揮棒を振った。
大気は暑かったが、池の水は表面だけ生温く、下はまだ冷たかった。私は池の真ん中あたりまではゆうゆうと平泳ぎを続けた。久しぶりに故郷の海で泳いだことを想いだした。私は九州の半農半漁の村に育ち、松本と対照的に小柄だったが、野性的で敏捷、要領が良かった。しかし、海で泳ぎ慣れたものにとって、真水の水泳は体が重く、水の味も沼臭く、気持ちが悪かった。それでも往復三百メートル、十名以内に入って泳ぎきった。
「先着二十名は岸に上がれ、後の奴はもう一度いってこい」
やはり水遊びではない。訓練である。しかし、遅いものが必ずしもなまけていたわけではないだろう。むしろ全員が先を争って泳いだのだ。隊長の底意地の悪さが感じられた。
次は泳げない者の訓練である。
「泳げない者は、岸辺に並べ、そのうしろに指導員がつけ」
先ほど先着した十一名が泳げないもののうしろについた。そのなかに私もいた。
「番号」
「いち、にい、さん、しい、ご、ろく、しち、はち、く、じゅう、じゅういち」
「よーし、つきはなせ!」
泳げないものを、いきなりうしろから熟練者が池の中に突き放した。
土手に上がって見物するものは、溺れそうになってあえぐ戦友を見てゲラゲラ笑うものもあった。
ある者はただ手足をバタバタさせて、すぐ戦友にしがみついた。ある者はバタバタしながら沈んでいく。私が突き放した松本候補生も泳げないでいた。そのとき私は一瞬、
「ざまみろ、都会の大学生なんてなさけないものだ」
と思った。しかし、それは一瞬であった。私の前にいた松本の姿が見えない。私はあわてて、近くの池深く潜ってみた。
土手のうえにいたものが、私のあわてた姿を見つけたのか、
「誰かいないぞ」
「誰だ、誰だ」
「浜田候補生の前にいた奴だ」
騒ぎが大きくなって、白井隊長もあわてた。
「もう一度番号をかけて見ろ」
土手のうえから隊長が数えてみたが確かに一人たりない。
「もう一度潜ってみろ」
言われなくとも、私は何度も潜っていた。
「見つかりません」
三人も四人も潜って見たが、いない。
「松本候補生です、確かに自分の前にいた松本候補生がいません」
私はあわてて言った。
「池の底は赤土が濁って見えません」
「すぐ深くなっていて、潜っても底まで届きません」
「もっと潜って見ろ」
「もっと捜せ、もっと捜せ、もっとだ」
七
午後の訓練は中止。全員で水中に沈んだ松本候補生の捜索と救助活動に変わった。
「もう少し深く潜れる奴はおらんのか」
さらに二、三人が潜ってみたが、結果は同じだった。素人が、水中に潜っても、一分以上はいられない。池の底は冷たく赤土で濁り、足をつけると抜けなくなる。隊長は助教の瀬戸軍曹に促した。
「何か方法はないのか」
「農耕用の鍬を使って見ましょう」
瀬戸軍曹は、三名の候補生をつれて兵舎に入り、物干し用の竹竿と荒れ地を開墾するときに使う三本鍬の万能をもってきた。ここでは食糧の一部を自給するために演習場を開墾して甘藷を作っていた。竹竿の先に万能をくくりつけ、長い熊手を造った。これで岸辺から池の底を掻いてみる。一回目は手ごたえがない。鍬先に赤い泥がついて来ただけである。長い熊手は何本も用意され、つぎつぎと岸辺から掻いてみる。
しかし、どこに沈んだのか、あるいは流されたのか、二百メートルにわたる岸辺を掻き出してみたが見つからない。やがて十九時、長い夏の日も暮れる。行方不明になってから四時間余り、もはや生存は絶望であった。
瀬戸軍曹は中国戦線での戦闘経験が長く、前線から一時教育係りとして帰ってきた、いわゆる「戦場下番」であった。内地の軍隊経験一年半の見習士官などくらべものにならない。いままでおとなしく隊長を補佐してきたが、次第に事故処理の主導権は隊長から瀬戸軍曹に移っていった。
「隊長殿、水死体は沈んでから一度は水面に浮くといいます。その後沈むと二度と浮かばないというから今夜は池の周りに不寝番を置いたらいかがでしょう」
「よし、二十メートル間隔に歩哨を立てよ」
こうして夕食後から二時間交替の不寝番が歩哨に立った。私は二十二時から二十四時まで、松本候補生が行方不明になったところから三十メートル離れた葦のなかに立哨した。その夜、月の出は遅く雲間にかくれ、水面がわずかに光っていた。見えるのは前方十メートルくらい。顔に集まる薮蚊を追いながら水面を見張る。ボーン、ボーンという食用蛙の声が薄気味悪い。葦の間をたまに蛍が飛び交う。いつしか入隊以来の内務班での松本候補生のことを思い出していた。
初めての出会いは昭和十九年十一月末、松山の連隊に入隊のとき四国・高松から予讃線に乗ると向かいの席でウイスキーを飲んでる奴がいた。それもラベルからみると洋酒のようだった。いまどきどこから仕込んだのか、どうも都会育ちの大学生のような生意気なやつだと思っていた。ぜんぜん口も利かなかったが、それが松本だとわかったのは内務班に配属されてからだった。長身で色白、東京育ちで一高、東京帝国大学と進んだ秀才だと古年兵が言っていた。本籍が山口県だったので、中部軍管区の松山に召集されたのだ。
軍隊の内務班ではこうした坊ちゃん育ちののんびりした性格で、動作がにぶいと古年兵の標的にされた。弱い者いじめはいつでもどこにもあるが、軍隊はそれが特に強かった。それも戦場経験のある古年兵には言い分があった。
「ひとりののろまのために、部隊全員が危機に曝されることがあるんだ」
「行軍で落伍すると待っていられないんだ。機敏な行動と先制攻撃は自己を護るためにも絶対必要だ。そのために日常からきびしくしつけるのだ」
だから、初年兵のうちに機敏な行動をとる訓練をするのだ、聞けない奴には制裁を加えるのもやむを得ないという。ビンタで教育するという軍隊の伝統である。
毎晩の点呼前は新兵が気合いを入れられる時間であった。点呼の番号をとなえるのが遅いといってはなぐられ、言葉使いが民間の地方語で軍隊用語になっていないといってはどやされた。軍人勅諭や戦陣訓などの暗唱、直属上官の官位氏名などを繰り返し唱えさせられた。それらのことで何か間違ったら全員の責任といっては制裁を加えられた。
初めのうちは古年兵が教育係りとして鉄拳をふるっていたが、あとでは新兵同士を二人向き合わせ相互にビンタを張らせた。そんなとき私と松本はいつも向き合わせられた。手加減をしているとさらに強くビンタするように古年兵から強制された。一度強く殴ると相手も殴りかえす。私は上背がないから長身の松本が有利であった。松本は軟弱だと思っていたが以外に腕力があった。私はそれに負けまいと背伸びして殴りかかった。
そのうち私と松本が幹部候補生になると、古年兵たちは、
「貴様たちは、幹部候補生だから、やがて見習士官から将校になるだろう。そうなると俺たちは手出しができないから、今のうちに気合いを入れてやろう」
公然とそう言って理由もなくわれわれを殴りつけた。そんなときいつも隣にいたのが
松本だった。何かというと二人は比較され、自然にライバルのように仕立てられた。
もう一つ自分でライバルと思っていたことがある。私は九州で育ったから熊本の第五高等学校生の白線帽にあこがれたときもあったが、所詮は田舎の農学校卒だ。とてもかなわぬ雲のうえの人と思っていた。その前に松本という第一高等学校から東京帝国大学法学部に入った秀才がいた。私は農学校の軍事教練の成績もよく軍隊の訓練では松本には負けないと思っていたが、それでも幹部候補生の学科試験や暗記力だけは松本にかなわなかった。明かに記憶力と学力の差があると思っていた。都会人と田舎者、東京の帝大と田舎の農学校卒。私は松本に対する劣等感から強い対抗意識を持っていた。
その対抗意識から松本候補生が泳げないのをみて、一瞬私は、「ざまみろ、都会の大学生はなさけないものだ」と思った。上官の命令とは言え直接手を下して突き放したのはこの私だった。ライバルとはいえ同じ内務班で生活してきた戦友を突き放してしまったことが悔やまれた。
遠くから懐中電灯がちらちらしながら近づいてくる。見回りの瀬戸軍曹である。
「立哨中異状ありません」
「何かあったらすぐ飛び込むんだぞ」
「はい、何か浮いたらすぐ飛び込んで引き揚げます」
しかし、その夜は何も発見できずに明けた。
八
次の朝舎前に集まった全員の前に現れた白井隊長は顔面蒼白、寝不足の相が歴然としていた。それを覆い隠すように怒鳴った。
「全員が松本候補生の捜索に当たれ。第一教育班は蚊帳で網をつくれ、第二教育班は筏をつくれ、第三、第四教育班は昨日と同じく岸辺で捜索を続けよ」
われわれは池のまわりで待機、十時ころ筏と蚊帳の網ができた。蚊帳の長方形の一辺に重石を包み込み、もう一つの長辺に浮きになる竹筒をくくりつけ、四方の隅に引き綱をつけた一種の袋網をつくった。この網を筏にのせて池の中央まで持って行き、そこで下ろして岸辺の隊員は地引き網をひく要領で岸に引き寄せる。
「もっとゆっくり引け、もっとゆっくり」
池の中央に浮いた筏のうえから瀬戸軍曹が命令する。白井隊長は土手に立ってしきりと指揮棒で長靴を叩いていた。
静かに、静かに岸辺に引き寄せられた。岸辺の全員が見守る中を蚊帳の網はひらかれた。しかし、それらしい姿は見えない。あるのはぬるぬるした赤い泥だけである。その泥を洗い落としてもう一度筏へ。場所を変えて二度めを引く。二度めも駄目、三度めも駄目。蚊帳の網目に泥がつまり役に立たなくなった。
外の班の捜索にも手がかりがない。白井隊長の顔にはますますあせりが見えた。
午後は何かいい方法がないかというので蚊帳の網の代わりに、万能鍬を四本組み合わせて大型の熊手をつくった。それを五組筏に積んで池の中央に運んで一度に下ろした。
「あせるな、あせるな、ゆっくり引け、ゆっくり引け」
午後からの実質的な指揮は筏のうえの瀬戸軍曹に移った。
水泳訓練を行った場所を中心に左右三十メートルにわたって正確に櫛をひくように静かに、大型熊手を引いた。筏を何回も漕ぎだし、何回も引いた。全員がそろそろあきらめかけていたとき、
「いたぞ」
「松本候補生だ」
と岸辺にいた誰かが叫んだ。全員がそこに集まった。
松本の長身の体は岸辺に引かれた熊手と平行に水平に浮いてきた。松本は両手を握りしめ胸のあたりに当てていた。その右手のこぶしが熊手の右端の鍬の刃にわずかにひっかかっていた。静かに引いた熊手に松本はすがりつくようについてきた感じであった。
松本の顔は恐怖にひきつっている。腹はふくれていない。水は飲んでいないようだった。私が突き放した瞬間にショックを起こしたのか。体はどすぐろい紫色に変色し、足は真っ直ぐにそろって硬直していた。腰に巻いたふんどしが半分はずれ、そこから黒く縮んでいるふぐり(睾丸)が見られた。
私はふるえる体を両腕で抱きしめ松本候補生の死体を見つめた。鍬の熊手をひいた場所からみても、はじめに私に突き放されたまま池の底に沈み、泥沼の上に寝たような形で横たわっていたものと思われた。この裸体は私の脳裏に焼き付き、一生忘れることができないことになった。
その夜の点呼は沈痛な空気につつまれた。
全員が幹部候補生で、やがて予備士官学校にゆき半年後は見習士官として白井隊長のように小隊を指揮する身分だ。最期の決戦が迫っている。いつどこで戦死するかわからなかい。しかし、当然のようにいずれは死ぬのだと多くのものが決めていた。身近な兄や先輩が戦死して帰らぬ人になったものも多くいたのだ。奇妙に死ぬことを気にしていなかった。
それにしても、松本候補生のように、戦場ではなく、訓練中に指揮官の無謀な措置によって死に至ったということは許し難いことであった。責任は歴然としている。全員の憎しみは教育隊長である白井見習士官に集中していた。
「あの野郎、ぶっころしてやる」
「畜生! 弾丸(たま)は前からばかりこないぞ」
そんな憤懣が充満していた。
「点呼! 」瀬戸軍曹の号令とともに、白井見習士官は週番士官の肩布をかけて教育班の前にあらわれた。
私たちの班長は報告する。
「第一教育班総員三十名、事故一名、事故の一名は・・・」
と口ごもった。
「わかっておる」
「現在員二十九名、番号」
番号が終わってからしばらく沈黙が続いた。
全員の眼は白井見習士官にそそがれる。
長身の白井見習士官は顔面蒼白になり、体はぶるぶるとふるえていた。明らかに酒に酔って、ろれつが回らないまま、必死に怒鳴った。
「われわれわあ、本土決戦を目前にしている。あらゆる力をふりしぼって決起しなければならん。最期の最期まで戦うんだ。最期に勝利をおさめるのは精神力である。われわれわあ、何がなんでも勝たねばならん。今回の事故わあ、聖戦完遂のため止むを得ざる訓練によって起きたものである。今後全員注意せよ、何が何でも勝たねばならん、今回の事故わあ、止むを得ざるものであった・・・今回の事故わあ、止むをえない、うううう・・・」
同じことを繰り返し、体は前後に揺れていた。自ら何をしているかわからない状態である。よほど大量の酒をあふったのであろう。
その体を支えていた瀬戸軍曹は、白井見習士官を引きずるようにして士官室に消えていった。
九
「そんなことがあったのですか」
「井上さん、こんなことがあったので松山に来るのがつらかった。事故の後、連隊で白井見習士官の責任追求はどうなったのかわかりません。おそらくどこかに転属させ、私だけを責めました。松本候補生の死亡原因は七月二十六日の空襲のせいにしてしまったのです」
そして私が今の妻、佐智子と結ばれたいきさつを話すはめになった。
昭和二十年の敗戦後、十一月、私は上京した。そして松本の家族に会い、空襲の時ではなく訓練中の事故死だったと母上にことの真相を話そうと考えていた。しかし、それができなかった。
あらかじめ手紙を出して訪問する日を決めていたが、ちょうどその日は松本の妹、佐智子さんが、疎開地の女学校から帰ってきた日で、たてこんでいた。松本の家は東京都本郷区駒込林町で、その一郭だけが奇跡的に空襲から免れていた。古い借家であったが、そこに戦災にあった知り合いの数家族が住み込んでいる様子だった。ようやく自分達のために二部屋だけ確保した母上に初めて挨拶をした。
「初めまして、私は浜田誠といいます。松本君のことは実に残念でした」
それ以上のことは切り出せなかった。幸い母上は無口ではなかったので助かった。
「いや、浜田さんには同じ班で健一がさぞお世話になったことでしょう。そのことは前に頂いたお手紙でよくわかりました。今になると敗戦の二〇日まえに戦死したなんて残念でなりません。よほどわが家は男運のない家ですね」
私は黙って聞き続けた。
「健一の父は海軍士官でしたが、昭和十二年八月起こった上海事変のとき上陸作戦中に戦死しました」
上海事件というのは昭和十二年七月七日北京郊外の蘆溝橋に始まった日中戦争が上海に飛び火して、八月十三日中国軍と日本の海軍陸戦隊が交戦をはじめた。これをきっかけにして日本陸軍は本格的に中支那軍を派遣して侵略をはじめ、近頃有名になった南京攻略・大虐殺事件などを起こすことになった。
つまり、松本の父上は日中戦争のはじめに既に戦死しておられたのである。母上はそのときから幼稚園の保母をしながら女手一つで松本健一と佐智子さんを育てて来られたのだ。
「だから、息子だけは軍人にするまいと、文科系の学校をすすめました」
体育訓練などにも消極的で運動会や海水浴でも良い成績をあげなくてもいいという教育方針だったという。健一はおとなしい子だったのでそれに従ったという。
母上のその方針が原因で松本は水死したのですよ、と心の中では思っても私にはとても言えなかった。それに上官の命令とはいえ、直接には私が後ろから突き放したのだと告白できなかった。
一回めの訪問は、目的を果たせなかった。そして、母上に健一の代わりにときどき遊びにきてくれと頼まれてしまった。
「この子は健一の妹の佐智子です。福島の女学校に疎開していたのですが今日かえってきました。健一がいなくなって一人っ子になってしまいました。浜田さんも何かのご縁です。ぜひ私たちの相談相手になってください」
母上の名は奈津子といわれ、小柄で色白、面長な美人であった。佐智子さんは女学校の二年生ということだったが母上に似て聡明そうで、白いスエーターがよく似合っていた。私に何が出来るかわからないが、この親子のためにできるだけのことをして罪を償おうと思った。
その後一カ月に一回くらいの頻度で松本家を訪れた。初めのころ母上との話は住まいをめぐる同居人の争いや食べ物の不足の話、上野駅では餓死者が続出しているというような話だったと思う。
やがて私は農林専門学校に入り、松本家の裏の空き地を耕して小松菜などの野菜つくりをはじめた。家庭菜園である。焼け跡から集めてきた防火用水用の水槽を土中に埋めて便所の糞尿を蓄えては畑の肥料にした。おかげで焼け跡の土でも季節の野菜がよく育った。
「誠さんは器用ですね、私たちだけではとてもこんなことはできませんでしたのに」
その頃から松本家では私を浜田といわずに誠と呼ばれるようになった。松本の母上は物事の是非をはっきりいう人で、あかぬけていて、都会的な知的センスのある女性であった。私がしばしば松本家を訪れたのは、その魅力に引かれたからかもしれない。
しかし、わたしは再び自分の罪を強く意識するようなできごと出会った。戦時中の連合軍捕虜や占領地住民に対する不法行為の罪で裁判にかけられ処刑されたBC級戦争犯罪人の報道であった。主に南方の戦線にいた下士官や兵隊、学徒出身の将校が上官の罪をかぶって有罪となり、現地で適切な通訳や弁護人もつけられずに死刑になっていたことが報じられた。後に「私は貝になりたい」というテレビドラマにもなったような話である。その当時の私にとっては他人事ではなかった。
私が泳げない松本を水中に突き放したのは上官の命令であったが私の責任はないのか、その疑問はわたしのこころの中に残り、平和な時代になるとなおさら強くなっていった。
軍隊で起こった上官の理不尽な命令による部下の事故死は上官の責任である。たとえ戦時中のこととはいえ、これは国家組織の中核である軍隊の中におこった犯罪である。たとえば占領地で相手が捕虜であってもこうした事故の責任は戦争犯罪人として告発されるであろう。その場合命令を下した責任者は勿論、直接手を下したものも罪を問われよう。私の場合はどうなのだろう。
なぜ、上官の命令を拒否しなかったのか。あのとき突き放し、松本が溺れそうになったとき、私は「ざまみろ、都会の大学生はあわれなものだ」と思った。一瞬でもそう思ったということは私の心に残忍性があったのではないか。殺意があったとは思わないが犯罪の一部を担ったことに違いはない。
この気持ちの整理がつかないうちに松本の母上からぜひ聞いて貰いたいという相談があった。
「誠さん、あなたがよければ佐智子を嫁に貰ってくれませんか、健一の代わりに私の息子になってもらえませんか」
私はとまどった。とまどいながらつい口にでたことは、
「佐智子さんは、いいんでしょうか」
「佐智子はもちろん賛成です。誠さんは本当のお兄さんのようだと頼りにしています。私もだんだん年老いて行くでしょう。そのとき佐智子は天涯孤独になります。どうか佐智子をよろしく頼みます」
私はこの時母上の申し出を断れなかった。自分の負い目を償うためにも承知するしかなかった。
「すぐとはいきませんが、心がけておきます」
と口約束をした。実際に結婚したのは私が農業団体に就職し、共稼ぎなら生活ができそうだという見通しがたった昭和三十年だった。佐智子も、すでに学芸大学を卒業し、小学校の教師となって子どもの教育に情熱を傾けていた時だった。
こうして私たちは結婚したが、母上が亡くなるまで、松本の死の真相には触れなかった。佐智子にことの真相を話したのは母上が亡くなった後だった。
地元の井上さんと言う友人を交えて妻と息子にここまで話すと私は肩の凝りがすっと無くなったような感じがした。これで自分の罪が消えたわけではないが、五十年目に到達した安堵である。
あたりは夕焼けの空に包まれ、池にいた二羽の白鳥が羽ばたいて私たちの側から飛びたっていった。
お わ り
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