77歳の伝記ライター 原田 勉
『電子耕』100号記念企画
「戦争を語り継ぐ」
2003.1.9
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「戦争を語り継ぐ」

1、私はこうして軍国少年になった
2、義兄の金鵄勲章
3、農業学校の軍事教練
4、中島飛行機エンジン試運転工
5、中島飛行機武蔵製作所の被爆
6、松山陸軍航空教育隊
7、軍隊生活・屍衛兵
8、仙台航空予備士官学校で敗戦
9、小説・五十年目の松山(その1その2


9、小説・五十年目の松山(その1

(この小説は実話をもとに1995年、カルチャースクールの習作として書いたものである。)


  五十年目の松山          

原 田  勉



 羽田空港を飛び立って間もなく、雲の上に頭を出した富士山を見て妻の佐智子はこどものようにはしゃいだ。
「ねえ、健太郎、こんなの初めてよ、きれいだね」
 ところが、名古屋上空あたりからは雲海の中に突っ込んだ。佐智子は松山に着いてからの天候ばかりを心配して息子の健太郎に話し続けている。いつになくおしゃべりになっているところをみると佐智子も少し興奮しているようだった。
 息子の健太郎は電機メーカーに勤めて十三年、三八歳になるまで松山に行ったことがなかったという。私の古希を記念したフルムーンに賛成して休暇をとってつき合ってくれた。
「松山って漱石の坊ちゃんの舞台だろう。漱石の『こころ』と『坊ちゃん』だけは読んだよ」
「それだけ?、漱石のほかにも有名人が出ているわ」
「だれよ、文学者? 」
「そう、正岡子規よ。俳句の神様ですよ」
「そうか」
「わたしは子規記念館を訪ねたいたいの、それに道後温泉ね」
「ああ、坊ちゃんも入ったというお風呂だろう」
 私たち親子三人が到着した四国・松山空港は梅雨後期の大雨がとおりすぎた後だった。空港から市内に入る道路は街路樹としては珍しいメタセコイヤが鮮やかなみどりをみせていた。
 すっかり変わったな、この辺は田圃だけだったのに。五十年ぶりの松山は。
 私は今まで松山だけは訪れたくなかった。
 会社の慰安旅行で四国巡りが計画され、松山・道後温泉泊まりが予定されたとき私は家庭の事情でと偽って不参加とした。しかし私は今年古希を迎えた。友人で先立つものも増えた。わたしだって何時どんなことで死が訪れるかわからない。しかも今年は戦後五十年目である。この機会を逃すと何時松山に行けるかわからない。急に思い立ったのは六月二十三日沖縄慰霊の日であった。
 五十年前、日本本土を戦場にしないため住民まで巻き込んで最期まで米軍へ抵抗したため二十三万人余りの犠牲者を出した悲しい思い出の日である。あのころに生きていた私たちは日本中どこにいても、いつ死ぬか知れない同じ境遇にいた。
おなじころ、私と佐智子の兄松本健一はこの松山の軍隊にいたのだ。そこで私と松本の間に悲劇がおこり、松本はここで若い命を失った。
 私にとっては訪れたくない、思い出したくない松山であるが佐智子にとっては兄、健太郎にとっては伯父の最期の地を二人に見せ、私と松本の関係、松本の死の事実を明らかにしておきたかったからである。
 到着したその夜、私たち人は、松山市庁舎の前で、ライトアップされた「平和」という文字にしばらく見とれていた。
「やったねー、おやじ」
「松山市役所の連中もやるもんだ」
 妻の佐智子はまだピンとこないようだった。
「ここが市役所なの」
「そうだよ、ほら四階から十階にかけて窓を利用したんだ」
 健太郎は窓の数をかぞえはじめた。
「明るい窓と暗い窓の合計は、左右の十八と七階分だから百二十六だよ」
「あーあ、そうなの暗いところはブラインドを下ろして電灯を消してるの」
「そうだよ、市役所の職員たちが考えて、自前でやってるんだって」
「おやじの友達がいるの」
「農林水産課長が学校の後輩なんだ」
 今日は七月二十六日、この日は松山市民にとって、特別の記念日である。
 そして、私こと浜田誠にとっても忘れることの出来ない日であり、妻と息子にとってもかかわりの深い日であった。
 平成七年七月二十六日、私はぜひこの日に家族で松山を訪問しようと決め、松山市役所にいる友人の井上さんに頼んで資料を手に入れ、いろいろな手配を頼んでいた。

 今からちょうど五十年前、あと半月あまりで一九四五年八月十五日の敗戦を迎えようとしていたときである。そんなことになるなど誰も予想つかない昭和二十年七月二十六日夜、四国・松山市はアメリカ軍のB29爆撃機百二十八機によって空襲をうけた。投下された焼夷弾は八百九十六トン、市の中心部の九割の建物が焼失した。このとき焼け出された人は六万七千人余り、死者二五一人、行方不明八人、負傷者は数えきれぬほどであった。
 そのとき、私は二十歳で松山城の旧三の丸、通称堀之内にあった陸軍第三航空教育隊という兵営の中にいた。十数棟あった兵舎は総て木造で、僅かに煉瓦造りの連隊本部だけ残してこの夜に焼失した。およそ二千人はいた兵隊たちの中からも多数の犠牲者を出したが、その詳細は「軍の機密」ということで公表されていない。
 昭和二十年米軍の空襲をうけた都市は全国で四十数カ所。中でも三月十日から数回にわたる東京大空襲はいろいろな記録が出版されて有名である。広島・長崎の原爆被害は言うにおよばない。しかし、その他の都市でも徹底的な空襲を受け、それぞれ民衆は深く傷つき、多くの被害をうけた話が語り継がれている。その中で、松山市は後の調査によると最も徹底的な焼夷弾攻撃を受け、さらに現在松山空港になっているところにあった海軍航空隊は四回の爆撃で多数の犠牲者を出した。



 私は、そのとき甲種幹部候補生で、軍曹の階級章はつけていたが軍隊に入って八カ月めであった。今で言えば会社の新人同様のものが、四十数人の新兵をあずかる教育係班長という重い責任を負わされていたのである。
 当時の軍隊では新兵を教育する小隊長を教官といい、少尉か中尉の将校が当たっていた。それを補佐するのが助教といい、二十数人の新兵をあずかる班長で伍長か軍曹の下士官であった。その下に助手の教育係上等兵がいた。しかし、戦争末期、とくに昭和十九年は満二十歳で現役召集する者の外に徴兵年限を一年繰り上げたため新兵が二倍以上になっていた。昭和十八年までは毎年四十万人だった現役召集兵が十九年には百十万人、二十年には六十八万人と膨れ上がっていた。そのため軍隊は新兵であふれ、一班の収容人員も平時の二倍の四十数人となっていた。当然幹部も不足していた。正規の陸軍士官学校卒の将校は三分の一もいない。その補充のため中等学校以上の卒業生で軍事教練を受けた者を幹部候補生として採用し、短期の促成教育で将校あるいは下士官としていた。将校になる者を甲種幹部候補生、下士官になる者を乙種幹部候補生といった。
 私が所属していた教育隊でも中隊長だけが士官学校卒で、あとの小隊長は幹部候補生あがりの少尉か見習士官、助教は幹部候補生の軍曹が充てられていた。つまり私は古参の下士官の代わりに四十八人の新兵を教育する班長を勤めさせられていた。

 昭和二十年七月二十六日、二十二時二十三分警戒警報発令、続いて同二十六分空襲警報にきりかえられ、間もなく兵営の西の方角あたる市街地に第一弾が投下され火の手が上がっていた。
「全員退避」「全員退避」「全員退避」「ただちに防空壕に入れ」
 助手の教育係上等兵とともに、必死の叫びで、たたき出すように兵隊を一階に下ろした。
 私がいたのは第一中隊の第七班、二階の東端であった。そのころ兵隊は軍服を着たまま寝ていたから行動は早かったが、まだ入隊して一カ月にもならない新兵のなかには、
「帽子がない、もとい軍帽がありません」
 ともたもたするものもいた。
 昭和二十年七月といえば既に沖縄は米軍の手に落ち、日本本土にいつ上陸するかというときである。徴兵適齢者の八割は軍隊に動員されていたから、入隊当時から栄養失調で、体力もない半病人の兵。片目しか開いていない兵。少し足をひきずるもの。よくもこんな兵隊を現役召集したものだと内心驚いていた矢先だった。しかし、いざ戦場となると私はこの兵隊をひきいて先頭に立って闘わねばならない。いやすでに今が戦場だった。
「もたもたするな、命をうしなうぞ、軍帽なんかいらない、早く退避しろ」
「全員指定されている防空壕にはいれ」
 とどなり続け、最後の兵が降りてくるまで待った。
その時、すでに兵営の上空は飛行機が旋回し、束になった小型の焼夷弾を上空でばらばらに散らして落していた。焼夷弾は屋根を突き抜け爆発と同時に中の油に火がつく。中隊の兵舎には何本も火柱があがった。その炎が身近いところに迫ってくる。
「最後は誰だ。まだいるのか」
「わかりません。しかし、誰かが残っています」
 一階の出口で待っていた私は、営庭に出て燃え始めた兵舎を仰ぎ見た。
 そのとき、どろどろとした油が顔にかかって燃え出した。
「浜田班長どの、頭がもえています、早く避難してください」
 助手の岡野上等兵が、私をひきずるようにして第七班の防空壕につれていった。気がたっていたのか、痛いとか、熱いとか感じなかった。
アメリカ軍の爆撃機は、何機かの編隊で、交替に波状攻撃をしていた。はじめの焼夷弾は小型ばかりだったが、五、六回目から大型焼夷弾になった。
 しばらくして、岡野上等兵が叫んだ。
「班長どの、第二班の防空壕が大型爆弾の直撃をうけました」
「戦死者は多いのか」
「わかりません、今救急隊が走っています」
第二班にも幹部候補生の教育班長がいるはずだ。私と違って学業中途で軍隊に入った学徒兵である。みんな生きて帰れるとは思っていないが、第一線に出ないうちに、こんなところで死ぬのはさぞ残念だろうと思った。
 私は、顔の火傷に油をぬったガーゼを当ててもらいじっとしていた。
 新兵たちにも、
「動くなよ、壕から抜け出しても助からないぞ、そのままじっとまっていろ」
「こんなとき、消火しようとしても無駄だ」
 私はそう思って、波状攻撃の止むのをひたすら待つことにした。
近くで燃える焼夷弾の油の匂い、火事特有の焦げ臭い匂いと煙が壕のなかまで充満していた。
 ふと私より早く三月に外地に転属していった同期の兵隊たちはどうしているだろうかと思った。すでに六月末に沖縄の戦いは終わっていた。それでも軍の方針は本土防衛で最期の一兵まで戦うと言っている。アメリカ軍はどこに上陸するかわからない。九州か四国か、あるいは一気に関東地方に上陸するかもしれない。自分たちは航空教育隊に入ったが、整備する飛行機も数少なくなった。そのため第三航空教育隊は解散し、四国防衛のための第三四四師団に所属することになった。つまりこれからは歩兵と同じく肉弾となって敵に体当たりするしかない。自分はそのための下級指揮官だ、と覚悟していた。
 いずれは死ぬのだ、特別攻撃隊でなくても、どこにいても死を迎える。できれば早く、あまり苦しまないで「名誉の戦死」と言われるような死に方をしたい。死のほかに道はない。「逃れられぬ運命」だと思った。
 二時間半の爆撃機の波状攻撃は長く長く感じられた。いつ直撃弾にやられるかわからなかったからだ。飛行機が去ってもしばらくはじっとしていた。放心状態といってもよい。
 やがて夜があけ、五時ころは火災もほとんどおさまった。
 新兵を壕から出し、点呼の結果、手足の火傷や軽傷の者もいたが命だけは全員助かった。私の班は無事だった。だが、他の班では逃げ遅れて、死亡したもの、直撃弾を受け行方不明になったものなど数十名がいるというので、その捜索と後片づけに一日があてられた。
 私は、焼けただれた右まぶたがくっついて前が見えなくなった。片目では方角が判りにくい。右指でまぶたを押し開け、救護班の手当をうけにいった。今でも右目は完全には開かない。顔のやけどの痕もわずかに残っている。

 私の二十歳の個人的体験はこれだけではなかった。このとき戦友の松本健一候補生は第二班の防空壕にいて、大型爆弾の直撃を受け戦死した。と言うことになっている。七月の末になって中隊の人事係准尉から呼ばれ次のような命令を受けた結果である。
「浜田候補生、貴様が松本候補生の事故にかかわっていることはわかっているな」
「はい、わかっております」
「そこでだ、松本候補生の遺族に対して連隊長名で<七月二十六日の空襲にあたり名誉の戦死をとげられた>と通知する。不名誉な事故死をあえて知らせることはないからな」
「はい、わかりました」
「そこでだ、浜田候補生は戦友として当日の空襲の模様を簡潔に書きおくり、松本候補生の名誉の戦死を悼むという手紙を出してもらいたい」
 私は、反論したかったが、准尉の顔を見ると言えなかった。そんなときいつも「上官の命令は朕が命令と思え」という軍隊では絶対服従のおきてが頭に浮かんだ。とても自己主張などできるわけがない、ましてや人事係准尉に楯突いたら後でどんな痛い目に会うかわからない。そのことはこの八カ月の初年兵教育の間に嫌というほどわかっていた。しかも松本候補生の事故死には、たしかに私もかかわりがあったからだ。
 昭和二十年十一月、敗戦後松本健一の家族を尋ね、松本の母上に会ってことの真相を伝えようと思ったが、その場の雰囲気から話せなかった。いつかは話そうと思っていたがついに母上が亡くなるまで本当のことは伝えられなかった。亡くなってから妻にだけは話したが充分自分の気持ちを表現できなかった。



 松山市主催の「戦後五十年平和記念事業」は七月二十六日市庁舎の「ノーモア松山空襲・平和ライトアップ」の外に、「平和写真パネル展」が十日間あり、二十九日には「平和を考える一日」という演劇や歌、「親子で語り継ぐ戦後」の対談などが愛媛新聞社との共催で行われていた。
 私たち親子は、七月二十六日に松山空港に着き、道後温泉に宿をとって、先ず松山城から市の全体を展望した。松山市はこの城山のまわりに広がり、街の端まで見える。城の下は旧三の丸で昔の軍隊があった所に、野球場や競輪場、公共の施設が立ち並んでいる。
 次に平和写真展のある市のコミュニテイセンターを覗いた。私にとって懐かしかったのは松山市民提供の戦時中の松山の写真で、焼ける前の平和な街の姿であった。松山は古くからある道後温泉とともに漱石の小説『坊ちゃん』や俳人正岡子規ゆかりの地として有名で、静かな街であった。今でも、市内は路面電車が城山の周りを環状に走っていて、どこにいっても俳句の街という雰囲気をもっている。こんど来て驚いたのはいたるところに句碑が建てられ、建設現場の仮設囲いにも有名な俳句の数々が書かれていたことだ。
一日目の夜のイベントは冒頭にあげた、市庁舎のライトアップの「平和」文字だった。市民の祈りによって死者二五一人、行方不明八人の方々の五十年忌が行われたのである。平和の有難さをつくづく思った。
 二日目は、いよいよ堀之内の軍隊跡を訪ねることである。
 道後温泉駅から市内電車で十五分余り、南堀端下車。城山公園南口が入り口になっている。そこで、健太郎が立ち止まって私を振り返った。
「おやじ、これはなんだ、この石は」
 堀の内の入り口の左側に高さ五〇センチくらいの石に「陸軍省所轄地」と彫ってある境界標識を指さした。
「右の方は陸軍省用地となっているよ」
「五十年前に解体したはずの陸軍省という境界標識が、今だにここにあるというのはどういうわけだ」
 私は、戦後何度も悪夢にうなされたことを思い出した。召集令状がきて軍隊に引っ張られる夢である。仕事の途中で召集を受け急いで準備し、長い道中を経て、ついにまた軍隊に入るのかと恐れながら、この道を通って営門をくぐる直前にハットして夢から醒める。そんなとき、たいていびっしょりと汗をかいていた。そんなことが何度もあった。
 元軍隊の営門のまえに来て、五十年前の軍隊内の強制的軍事訓練と、リンチといっても言い理不尽な初年兵への制裁を思い出した。当時は逃げることのできない運命だと思っていた。それが昭和二十年八月十五日、あっけなく敗戦になり、軍隊は解散した。
 ところがどうだ、ここに陸軍省の境界標識が残っている。
 戦後軍隊が解散した跡は、恐らく国有財産となったであろう。それを県や市の公共施設として払い下げられたであろうに、県や市当局は何故この境界標識を取り除かなかったのであろう。或いは意識的に「ここは昔軍隊があって、陸軍省のご用地だった」という記念にしたのかもしれない。
 複雑な気持ちのまま、公園に入った。
「なんだ、こんなところにNHK会館がある」
「そうだ、ここには営門を守る衛兵がいて、その奥に私たちの第一中隊があった」
 私たちはNHK会館の裏にまわると弓道場があった。
「ここが防空壕のあとだ」
「ここで伯父さんが亡くなったの」
 健太郎はおばあちゃんから聞いていたのだろうか。佐智子は事情を知っているから黙って、私の顔を見ていた。私はここでは健太郎に答えなかった。
 この日は公園内で競輪があって、弓道場のとなりの空地が臨時駐車場になっていた。そこに車を誘導するガードマンが立っていた。だいぶ年配のようだ。
「すみませんが、松山出身の方ですか」
「ああ、そうですが」
「私は五十年前にここの軍隊にいたものですが、当時のなごりがどこかにないでしょうか」
「二十二連隊ですか」
「いいえ、私は航空教育隊でした」
「自分は昭和十七年に志願して二十二連隊に入ったものですが、すぐ中国の上海近くに送られて、そこで初年兵教育をうけました」
「二十二連隊でよく生き残れましたね」
「本隊は沖縄で玉砕しましたが、自分たち補充隊は中国に残りましたので助かりました。連隊の記念碑が国立病院のまえにありますからご案内しましょう」
 案内されたところは、元の陸軍病院前だった。そうだここに連隊の医務室があって、裏は陸軍病院につながっていた。医務室には二、三度いったことがあったと思い出された。
 現在の国立病院と四国ガンセンターの門の脇に「歩兵第二十二聯隊跡」という記念碑があり、そのそばに「最も愛情あるものは最も勇敢なり 桜井忠温識」の碑があった。
健太郎は人文系の大学を出ているが軍隊のことや戦争の歴史など知らない。
「桜井忠温ってどんな人だ」
「桜井忠温は愛媛県出身で、ここの部隊から日露戦争に従軍し、その体験から『肉弾』という小説を書いて有名になった将軍だ。ここの二十二連隊は日露戦争のときから勇猛果敢な軍隊として有名な郷土部隊だ。上海事件のときも軍艦陸奥で上海まで急行し、海軍の陸戦隊を助けた勇敢な精鋭部隊だった」
 その碑の前で、佐智子は線香を出して火をつけようとした。
「佐智子違うんだ、そこではなくて、こちらだ」
 もう一つの記念碑が左の方にあった。
<鎮魂 第三航空教育隊 西部第九十九部隊 中部第五七一部隊終焉地>
「これだ、私たちの軍隊の記念碑だ。松本健一と私がいた中部第五七一部隊の跡だ」
「ここで伯父さんは亡くなったわけ」
 健太郎は再び聞いた。
「所属部隊はこの航空教育隊だが、死んだのは別のところだ」
「え? もっと外にあるの」
「そうだ、ともかくここでお参りしよう」
 記念碑の前に線香を捧げ、親子で黙祷した。五十年目の追悼だ。
 松山の軍隊にいたのはわずか九カ月であったが、私の人生を大きく変える転機になった。思い出は次々に涌いてきて、どう整理してよいか迷った。



 午後は、市内から十数キロ離れた山の中「城山下大池」に行くことにした。
「なんでそんなところまで行くんだよ」
「とにかくきてもらえばわかる」
「こんな暑いときに、おやじだけ行けばいいじゃないか」
「そうね、初めての松山だから見物もしたいわね」
「いや、どうしても二人に見てもらいたいところなんだよ」
 明治時代から続いていた歩兵二十二連隊の小野陸軍演習地だが、今は陸上自衛隊松山駐屯地に所属する小規模な演習地である。昭和二十年当時、私たち第三航空教育隊でもときどき、この演習地で新兵の訓練をうけた。その後敗戦間際に幹部候補生の集合訓練があった思い出深いところである。
 この度の松山訪問を計画してから市役所の友人・井上さんに頼んでいた。
「小野演習地の中に横二百メートルくらいの大きな池がある。名前はわからないが演習地内の溜池でも、水は周辺の水田潅漑用だから農家が利用しているはずだ。私はその土手の北側下の兵舎に昭和二十年夏にいたことがあり、思い出の土地としてその池を五十年ぶりに訪ねたい」
七月二十七日午後、友人の井上さんは、休暇をとって車で案内しながら、いきさつを話してくれた。
「四国は、よく干ばつになるから溜池がたくさんあります。昔から農家が共同で使っていましたが、今ではほとんど土地改良組合の管理になっています。私たち農林水産課の所管ですからすぐわかりました。そこに行くと土地改良の記念碑があるはずです。いまから五年まえに、水田の基盤整備事業で補助金がでまして、池の周辺をコンクリートでかため漏水しないようにし、取り水口もポンプにかえました。昔の名は『城山下大池』でしたが、こんど『奥屋敷新池』と名前をかえました。戦時中は池の土手の下にバラックの兵舎があったと土地の古老が言っていましたからたぶんその池でしょう」
「城山というと、昔は城があったのですか」
 ようやく興味をもってきた健太郎が聞いた。
「南北朝のころ、このあたりは合戦場だったそうです。そのころ池のうえに南朝方が山城を築いたそうです。標高は二六六メートルですが、この下一帯を見おろすことができます。今の松山に城ができたのは近世ですがそのずっと前ですね」
 そんな話をしているうちに城山下新池に着いた。
 車を降りると、なるほど土地改良の記念碑が建っている。その裏手に池が広がって、白鳥が二羽泳いでいる。池は私の予想どおり、縦一五〇メートル横二五〇メートルくらいの横長の形をしていた。当時池のまわりは葦に覆われた泥沼のような感じであったが、今はすっかりきれいなコンクリートの堤が築かれ、水も綺麗で、白鳥がゆうゆうと泳ぐさまは平和そのものだ。



「ともかく、井上さんも一緒に聞いて下さい」
 私は妻と息子をうながして、池の土手に立ち、線香を取り出しながら話し始めた。

 昭和二十年七月中旬、急に開けた梅雨あとの蒸し暑い日だった。照りつける太陽は強烈だった。雑草が生い茂る演習地、その草いきれの中を私たちはもう何百メートルも匍匐(ほふく)前進の訓練を続けていた。 
十二時はすでに過ぎているのに、食事ぬきである。ことの起りは、ある候補生が訓練中はもってきてはならない腕時計をどこかに落とした。その話を十時の小休止のときぽろっとしてしまった。それを運悪く教育隊長に聞かれてしまった。教育隊長の白井見習士官は、学生気分の抜けきらない幹部候補生たちをなんとか絞り上げようと待ちかまえていた。そしてそのときこう言って激を飛ばした。
「貴様たちもすでに知っているように、沖縄戦は終息した。我々の先輩松山の歩兵二十二連隊は沖縄で玉砕し、連隊旗は焼かれたという。貴様たちは航空技術将校たるべく幹部候補生となったが、すでに整備する飛行機はない。従って七月十日第三航空教育隊は解散し、国土防衛軍に編入された。貴様たちはこれから国軍の幹部となって上陸する米軍を水際で叩きのめすことが任務である。それには強靭な精神と肉弾しかない。しかるにこれはなんだたるんでいる。これは教育隊全員の責任だ」
 こうして懲罰の意味もふくめて何百メートルもある演習地を一列横隊にならんで匍匐前進、時計さがしををさせられた。
「あーあ、これが訓練か」
「前線に飛ばされるよりましだろう」
 はじめはそんな私語をするものもいたが、しまいにはうんざりして竹槍を取り落とすものもいた。その時期はすでにわが軍隊には軍需物資が不足して、教育隊には銃一つの兵器もなかった。そのため竹槍を銃の代わりに両手で支えて、両肘と両手だけでいざるようにして進むのである。全身汗びっしょり、軍服の上まで黒くにじみでていた。
「こんなことより水泳訓練でもやらんかな」
 そんなことがささやかれた。教育隊の兵舎のすぐ南側に大きい溜池があったからである。
 十三時すぎ、ようやく訓練は終わった。軍服は汗まみれになって午後の演習まで乾く見込みはなかった。
 ところが、昼の食事後、伝令が伝わった。
「午後の演習は、水泳訓練とする。全員褌をつけて土手のうえに集合」
 みんなは小踊りして喜んだ。
「案外話せる隊長じゃないか」
「やっぱり学徒出陣組だからな」
「われわれより一年前に入ったばかりだからな」
 昭和十八年十一月東京では神宮外苑で学徒出陣式が行われ、雨の中を東条首相の閲兵を受けたという。白井見習士官がそこにいたかどうかは問題ではない。ともかくその年の十二月に軍隊に入って幹部候補生になり、三カ月まえに見習い士官になったばかりである。 


その2へつづく

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