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7、軍隊生活・屍衛兵
戦争を語り継ぐ(7)
屍 衛 兵(しかばね えいへい)
「昭和二十年三月二日、松山陸軍航空教育隊
霊安室ニ於テ屍衛兵ヲ命ズ。」
私は、同じ班の戦友浮田二等兵の病死を身近にみてきた。その日は第一装に背嚢、剣付銃で二人一組になり、霊安室の衛兵についた。
戦友との最後の別れである。
浮田は私と同じ熊本から、この松山市堀之内の第3航空教育隊に1944年の12月に入隊した仲間である。地主の息子で、中学卒のインテリであった。
そして、私と同じく結核の既応症があるというので、同じ班に所属した。それは、「養護班」という班編成で、結核が進行したものは即日帰郷させるためだった。だが、その実は健全な兵に結核菌の伝播をふせぐための措置であった。
敗色濃い時期の軍隊は、特別の待遇はなく、初年兵の訓練も他の班と区別はない。陸軍飛行(整備)兵として満十九歳の繰り上げ召集であったが、その時すでに整備する飛行機は殆どなく、訓練は専ら歩兵と同じ肉弾の白兵戦に備えたものであった。
人を殺すことは、普通の神経ではできない。
非情になるため、非人間的な兵隊を作り出すのが内務班教育である。班生活や訓練時の失態を見つけては、教育という制裁を加えられた。
速成教育だから制裁も毎晩のように行われる。とくに中学卒以上は古年兵の目の仇にされる。幹部候補生になって将校になるまえに痛めつけようというわけだ。私も浮田も殆どなぐられない日はないくらいに上履きや鉄拳で制裁をうけた。
その冬は特に寒かった。栄養となる食糧は乏しく、訓練はきびしい。夜は小便に6回も起きて寝るひまがない。体の水分が出てしまうと思うくらいに尿が出る。2階の兵は兵舎の裏にある厠(便所)まで我慢できない。垂れ流すのを防ぐため前をつまんで走る。
こうして体重70キロだった者が50キロになるのに2カ月はかからなかった。私も浮田も50キロの小柄だったが、40キロ前後まで減少した。階段を手すりにつかまってようやく上がる。
全員が栄養失調で、しかもシラミにたかられ、休みの日はシラミ退治についやされた。シラミによる発疹チブスも蔓延し、下痢をする兵が多くなった。それでも訓練は続けられ、ぎりぎりの状態になるまで入院させられなかった。
入院すると生きて帰った例がなかった。だから兵は皆入院を恐れた。それでも私の班は病弱なものや、中学卒以上のものが多く入院し、一期の検閲(3カ月の速成訓練認定)を終え外地に転属する前に一割が病死した。
浮田二等兵は最後まで、がんばったがついに2月下旬、下痢が止まらず入院した。何を食べても、すぐ下痢をして吸収できなかった。発疹チブスと栄養失調のよる衰弱で、体温も20数度に下がり、意識を失ったという。
霊安室の衛兵は深夜に及んだ。歩兵銃に着剣して立哨している脚もと、暗い灯火管制の中で、浮田の寝台のへりにうごめくものがいた。
冷たくなった屍から離れるシラミであった。
一匹から二匹、三匹と続く。
軍隊の苦い思い出は忘れようにも忘れられなかった。敗戦後、再び上京して、就学・就職してから何年もの間、たびたび悪夢にうなされた。召集礼状がきて、軍隊にひっぱられる夢である。「長い道中、ついにまた軍隊かと恐れおののき、松山の軍隊の営門をくぐる直前」にハットして目がさめる。
そのとき、びっしょりと汗をかいていた。
(その8、仙台航空予備士官学校で敗戦、に続く)
資料:野間宏著『真空地帯』岩波文庫、映画『真空地帯』新星映画1952年。
(陸軍の兵営は何処も同じで、中隊長、人事係准尉、内務班の教育、訓練、下士官、古年兵、新兵などの軍隊生活を良く表現している) |