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6、松山陸軍航空教育隊
戦争を語り継ぐ(6)
松山陸軍航空教育隊
1943年12月、中島飛行機武蔵製作所田無試運転工場に徴用されたことは前に書いた。その年の11月学徒出陣も始まっていたので、予備校生は続けられなくなった。徴用されると、ガソリンのドラム缶運びやエンジンの組み付け。プロペラまわし、計測の手伝い、取り外しと追いまくられ、手にはアカギレ、生傷が絶えなかった。そして戦闘機のエンジン生産は最高になって3交代の徹夜勤務になり受験勉強はできなくなった。しかも徴兵検査は満19歳に1年繰り上げられ44年の11月、飛行兵として軍隊に召集された。
入営した所は、四国松山の陸軍第3航空教育隊。航空隊といっても飛べる飛行機は一機もない。整備兵の教育隊だから仕方がないとしても、試運転工場で扱っていた最新式のエンジン「栄21」「誉」などは、教材としても見ることはできなかった。
あるのは何処の軍隊も同じ、きびしい新兵教育であった。
1944(昭和19)年12月から45年3月までの4カ月間、前だったら2年かけた新兵教育をこの短期間に仕上げるという促成訓練である。
それだけに、歩兵と同じ昼間は戦闘訓練、夜は99式歩兵銃の取扱いから内務班教育、毎朝毎晩鉄拳がとぶ厳しさだった。
真夜中の非常呼集で道後神社まで駆け足行軍、演習場では、散兵戦闘、銃剣術、突撃など歩兵と同じ「戦う兵隊」としての訓練だった。
とくに毎晩の点呼前後は初年兵全員が直立不動の姿勢で気合いをいれられる時間である。軍人勅諭や戦陣訓などの暗唱、軍隊用語、姿勢などの強制。そしてそれが出来ないとビンタをとられる。また不始末をした兵隊の戦友(6、7人)は、全員が責任をとらされて、相互に殴り合うことを強要され、中には私的制裁を受けるものもあった。となりの班では要領の悪い初年兵が古年兵になぐられて起立不能になり、やがて病院で死亡した。
私も3カ月間は、ほとんど毎日のように気合いを入れられ殴られた。殴られなくなったのは、毎月のように入隊する初年兵が栄養失調になり、目にみえて病弱者がふえ、すべての制裁を禁止するという、師団長命令が45年3月に出てからである。
軍隊の食事は地方住民よりよかったが、新兵のめしはコウリャンいり、それもお碗半分、身のない味噌汁だけだった。練兵で体力を消耗するのに栄養は不足する。そのため栄養失調兵が続出した。
入隊時体重75キロあった友人は50キロに減り、私は49キロが41キロになった。訓練から帰ると階段を昇るのもやっと。夜は小便に7回も起きて寝る暇がない。
栄養失調のひどい兵隊は下痢が慢性化し、いくらくっても腹にたまらない。さらにシラミによる発疹チフスを併発して入院するものも出てきた。こうして私の班だけで、48名の初年兵中5名が4カ月の間に死亡した。
その中に同じ熊本から一緒に入隊した戦友がいた。病院で生きたまま体温が30度以下にさがっていたという。死亡したとき、私たち戦友は霊安所の屍(しかばね)衛兵についた(別項に詳しく書いた)。
栄養失調になると食べ物にさらに、いやしくなる。古年兵の残飯、味噌汁の大根葉を新兵同士が奪い合った。私も一つの碗を取り合って顔をみたら同じ村から出征してきた戦友であった。
我ながら哀れだった。身も心も餓鬼のように人間らしさを失っていた。ここで初めて日本軍隊の本質を解り始めた。
(戦後、発表された野間宏著『真空地帯』・映画『真空地帯』が良く軍隊生活・内務班教育を表現していた。戦うため人間性を喪失させるための軍隊生活であった。まさにそこは真空地帯であったと思った)。
45年3月、第1期の検閲を終えた新兵は一等兵に進級し、幹部候補生を除いた兵隊は南方と満州に転属していった(戦後になって、村に帰ったとき、一緒に出征した戦友は、三人のうち一人が戦死・餓死していた)。
同年4月から、私は甲種幹部候補生として、教育隊に残り、中隊当番、医務室当番勤務などを経て、毎月入ってくる初年兵の教育係となり、内務班班長も経験した。
6月になると第3航空隊全部の幹部候補生集合教育を受けた。甲種幹部候補生・乙種幹部候補生別班で小野村演習地の集中訓練である。そこで水泳訓練中に泳げない候補生を池に突き落として水死させる事故が起こった(それについては別項に「50年目の松山」として記録している。今思えば、米軍の本土上陸に備えた防衛訓練のための下級幹部の訓練であったのではないか)。
7月25日、仙台飛行学校に転属のため松山市の第3航空教育隊を出発した。
その1日後、26日午後11時30分松山市は米軍の空襲を受け、27日にわたって全市は消失した。堀之内の軍隊もほとんど壊滅した。
私たち甲種幹部候補生は軍用列車で、岡山・阪神・名古屋・東京を経て28日岩沼の飛行学校(現仙台空港)に到着した。途中の街はすべて焼け野が原になっていた。東京上野では停車時間が長かったので、本郷区動坂の石渉家跡を訪ねた。
勿論全焼したあとポンプ小屋に留守番の従姉妹がいたので、握り飯を貰って列車に帰った。(その7、屍衛兵に続く)
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愛媛県松山市城山公園南口、
路肩に陸軍省所轄地の標識。 |
第3航空教育隊跡の鎮魂碑、
西部第69部隊・中部第571部隊終焉地 |
営門の石柱と衛兵立哨所
(自衛隊松山駐屯地に史料館に保存) |
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| 自衛隊松山駐屯地にある奥屋敷新池。ここで45年幹部候補生が水泳訓練中に水死殉職した。 |
参考資料:野間宏著『真空地帯』上巻、下巻、岩波文庫
映画『真空地帯』山本薩夫監督、新星映画・1952
三国一朗著『戦中用語集』岩波新書
松友正隆著『松山城は残った』松山大空襲の記録 愛媛ジャーナル
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