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5、中島飛行機武蔵製作所の被爆
戦争を語り継ぐ(5)
中島飛行機武蔵製作所の被爆
私が試運転工場を離れた後(友人から聞いた話)、11月24日東京初空襲があり、中島飛行機武蔵製作所が米軍B29(空の要塞という重爆撃機)88機により集中的に爆撃された。後の記録によると、250キロ爆弾38発、油脂焼夷弾14発が工場内に落下し、死者78名、重軽傷者80余名を出した。この後も12月3日、12月27日、1月9日、2月17日から8月8日まで十数回続き、爆弾600発以上が命中し完全に廃虚となった。被害は動員学徒17名を含む220人の死者と負傷者226人の犠牲者を出した。
特に2月17日は低空飛行の爆撃で大きな損害を受け、エンジンの生産台数は極端に少なくなり、軍需省に報告される数は月産3、4台と報告された。その後高尾山付近や栃木・群馬県に疎開し生産を続行しようとしたが思うように進捗しない内に、敗戦を迎えた。
また、中島飛行機製作所の周辺の杉並区荻窪、武蔵野町、保谷町、田無町、東久留米村に至るまで米軍の空襲は住民に多くの被害を及ぼした。
田無町の航空金属工場も試運転工場も何回か空襲を受けた。
2002年9月、西東京市中央図書館に「戦争を伝える」の資料探しに行く。
インターネットで検索したら、戦争についての座談会を田無市立公民館と市立図書館で1981年に行っている。「戦争を伝える第3集」と「中島航空金属株式会社と田無」である。
第3集には「中島の軍需産業と庶民の生活」の座談会があり、出席者は武蔵製作所の赤坂六郎氏、航空金属の秋元重雄氏、田無試運転工場長の関義茂氏であった。関さんは私が1943年〜44年に徴用になっていた試運転工場の工場長である。関さんの話では、45年3月から試運転工場も部分的に疎開して敗戦時には100人くらいの規模になった。それまで航空金属も田無試運転工場も大きな空爆も受けずに残った。それは武蔵野製作所にくらべて、田無工場は松林に囲まれて空から見えなかったことが幸いした。そのころ中島飛行機の田無工場の敷地は松林など5万坪があったが、敗戦で国の所有になった。後にひばりヶ丘公団住宅や郵政官舎、都営住宅などになった。私の住む都営アパートもその1部である。運転工場の元正門あたりに現在高層マンションが建設中で2003年中には完成する。57年前の物語りである。
URL 「中島飛行機物語」目次
この中に、中島飛行機30年の歴史などが含まれている。
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