77歳の伝記ライター 原田 勉
『電子耕』100号記念企画
「戦争を語り継ぐ」
2003.1.9
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「戦争を語り継ぐ」(4)

1、私はこうして軍国少年になった
2、義兄の金鵄勲章
3、農業学校の軍事教練
4、中島飛行機エンジン試運転工
5、中島飛行機武蔵製作所の被爆
6、松山陸軍航空教育隊
7、軍隊生活・屍衛兵
8、仙台航空予備士官学校で敗戦
9、小説・五十年目の松山(その1その2

4、中島飛行機エンジン試運転工

戦争を語り継ぐ(4)
中島飛行機エンジン試運転工
  

徴用工のとき満19歳徴兵検査の帰途、
博多海軍航空隊勤務の上等水兵司人士兄(左)
と戦友の上等水兵。

 私は、1943(昭和18)年18歳、予備校生徒であったが、12月に徴用令により中島飛行機武蔵製作所(武蔵野町)に入社した。この時中島飛行機に徴用されたのは約1万人、戦時において不急不要と見られたあらゆる職種の人々であった。三鷹の訓練施設に入所する予定であったが、収容仕切れないとそれぞれの配属先に通勤することになった。私が配属されたのは田無試運転工場(田無町谷戸)の試運転工であった。運転工場の隣にある中島航空金属(鋳造、鍛造工場)に配属された者も多かった。

 中島飛行機は当時、国内最大の飛行機製作メーカーであった。三菱重工の設計した海軍零式艦上戦闘機(通称「零戦」)の生産では総数の3分の2(6570機)を占め、三菱以上の生産をした。その主力工場は武蔵製作所で、陸海軍の航空機のエンジンと気化器を製作した。陸軍の「隼」戦闘機のエンジンも製作し、その合否テストを田無試運転工場で行っていた。

 零戦は昭和15年三菱によって開発され、試作3号機からエンジンは中島「栄」12型を搭載した。空冷星型復列14気筒で離昇940馬力、中島の会心の傑作といわれ、中国戦線および太平洋戦争初頭、真珠湾攻撃などにおいて空中戦の中心的役割を果たし、零戦の評価を一躍高めた。
 私が試運転工として教育を受けた時は、「栄」12型エンジンは教材として残っていたが、主力になっていたのは、「栄」21型という高々度性能の1010馬力と、18気筒の「誉」エンジンで1800馬力が製作され、試運転されていた。「誉」は、陸軍の疾風・紫電・紫電改に搭載され、戦争末期にひと働きしたエンジンであった。また、中島飛行機製作所だけで製作され、零戦の空中戦において無くてはならない性能の高い気化器(キャブレータ)の試運転も田無試運転工場で合否テストが行われていた。しかも、国内の殆どの航空機に使用されていたのである。
 田無試運転工場(関義茂工場長)は事務所のある管理棟とボイラー室などの工作棟、そして風洞付き運転台が20棟くらい、風洞なしの野外運転台(主として気化器のテスト)が5棟くらい。従業員総数500人(内徴用400人)余りであった。熟練工の他に徴用になった人は専門学校卒以上は事務系、その他は運転現場に廻された。後には男女中学学徒も動員されていた。陸海軍の技術将校・監督官も常駐して厳しい管理の下におかれていた。

 私は1カ月の短期教育が終わると現場に配属され、まず燃料のガソリンやアルコール、潤滑油のドラム缶運び、エンジンの組み付け、木製のテスト用プロペラ回し(始動)、計測の手伝い、エンジンの取り外し、運搬などに従事した。

中島飛行機武蔵製作所田無試運転工場の跡に残っている2棟の元試運転風洞試験室の建物(1階はエンジンの出入口、3階は風洞の入り口だった、今は塞いでいる)昭和12年建設。ここで、中島「栄21型」や「誉」のエンジンテストが行われた。

 鉄筋コンクリート3階建ての風洞の中に運転台(室)があり(現存する古い建物が2棟、田無谷戸2丁目4番地にあり、岡田食品加工、日特金属労組支部が使用中、写真参照)台長以下3、4人がいて、総数は野外運転台を含めて25台位あった。台長は多くが元陸海軍の航空整備兵経験者で、運転レバーで操縦し、性能を計測し合否の判断をした。時に次長がレバーを握ることもあったが責任は台長であった。

 私は、エンジンの組み付けが主たる仕事で、スパナーその他工具一式を自作し身に付けていた。半年過ぎると燃料の消費量を計測する仕事にも着いた。そのころから野外運転台の気化器専門の運転台にいたが、3交代制になると、夜は余所の運転台に配属され、2トンもある重爆撃機用のエンジンのテストも経験した。その時は木製4枚羽のプロペラも大きくて始動の際、その風に飛ばされ3メートル下まで転落、足を捻挫して3日間の休養をとったこともある。3交代のときは、深夜になると仮眠が許されていたが、寝る場所はボイラー室で、すでに良い所は先輩たちに占領されてしまっていた。徹夜明けも1日働いて、次の日が休みであった。

1944(昭和19)年、中島は月産平均200機のエンジンを生産していたが、秋ころになると、栄・誉のエンジンテストの結果が落ちて来た。特別攻撃隊のためには、行きがけの燃料だけで行くのだから、エンジンの航続時間も短くてよいのではという噂があった。合格ラインも低くて良いのではという話もあった。テストが終わる夕方には路上にラベルが付いたエンジンの列が並んだ。その中にお釈迦(不良品)のエンジンも多くなった。原因は戦争の深化に伴う材料不足、素人工の大量導入による品質低下など考えられたが経験の浅い徴用工には解らなかった。
 私は、満19歳の徴兵繰り上げで昭和19年11月20日過ぎ、陸軍飛行兵として現役召集され、郷里へ帰り熊本の13連隊で受付をして、四国・松山の航空教育隊に入営した。

参考資料:吉村昭著『零式戦闘機』新潮文庫
URL  「中島飛行機物語」
この中に、発動機代表中島「栄21型」(ハ−115)写真あり

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