77歳の伝記ライター 原田 勉
『電子耕』100号記念企画
「戦争を語り継ぐ」
2003.1.9
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「戦争を語り継ぐ」(3)

1、私はこうして軍国少年になった
2、義兄の金鵄勲章
3、農業学校の軍事教練
4、中島飛行機エンジン試運転工
5、中島飛行機武蔵製作所の被爆
6、松山陸軍航空教育隊
7、軍隊生活・屍衛兵
8、仙台航空予備士官学校で敗戦
9、小説・五十年目の松山(その1その2

3、農業学校の軍事教練

戦争を語り継ぐ(3)

農業学校の軍事教練
 

武徳会剣道初段修得の時。

私は小学校高等科を卒業した14歳の4月(1939年)熊本県立天草農業学校に入学した。3年制の甲種実業学校である。ここで正課として軍事教練を受けた。学校には陸軍の現役将校鳥居中尉が配属され、学校附きの助教として予備役の大仁田准尉がいた。中等学校の教練では、前に述べた教練が正課として行われ、その成績によって各学生は卒業後、陸軍の幹部候補生受験の資格を与えられる。その成績を決めるのが配属将校である。将校・士官になれるものは「士適」、下士官に適するものは「下士適」、それ意外は幹部不適任で「兵適」であった。

 都会の中学や大学、高専の学生は軍隊を批判し、忌避するものもあったようだが、われわれの農業学校では「どうせ、軍隊に入るなら将校でなくてはつまらん」という雰囲気だった。時局は戦時体制で、半数以上の生徒は士官を目指して訓練を受けた。

 後で、わかったことだが、「農業学校の卒業生は純朴で上官の指示に従うから多くが士官適にする」という陸軍の方針だったという。結果として先頭に立って戦う将校となり、先輩たちの戦死の確率も高かった。さらに昭和17年には消耗率の高い下級幹部の補充に軍はあわてていた。幹部候補生の教育期間を短縮して予備士官学校を繰り上げ卒業させ、見習士官をすぐ戦地に送り出すことになった。

 

将校を目指して乗馬の練習を浜辺で行った。

私は、幼いときから軍国少年として育ち、軍隊に入ったら当然将校に成ろうと士適を目指していた。しかし、農業学校1年の時、戦死した義兄の後をつぎ養子になってからは養父の望みで、「戦死しないように獣医になる道」に考え方を変えた。そのため卒業後、上京して獣医専門学校を受験したが、合格しなかった。 予備校で再度の受験を準備していたが、戦局はそれを許さなかった。戦時総動員法によって不急不要の職種にあるものは軍需工場への徴用令が適用された(次の4で飛行機工場への徴用を述べる)




昭和16年夏、軍事教練の教官、大仁田准尉出征を見送る。
日の丸の側に軍隊喇叭を抱いて座る原田
(軍隊行進曲を吹奏して行進した)。


参考資料:山本七平著『一下級将校の見た帝国陸軍』文春文庫


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