77歳の伝記ライター 原田 勉
『電子耕』100号記念企画
「戦争を語り継ぐ」
2003.1.9
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「戦争を語り継ぐ」(2)

1、私はこうして軍国少年になった
2、義兄の金鵄勲章
3、農業学校の軍事教練
4、中島飛行機エンジン試運転工
5、中島飛行機武蔵製作所の被爆
6、松山陸軍航空教育隊
7、軍隊生活・屍衛兵
8、仙台航空予備士官学校で敗戦
9、小説・五十年目の松山(その1その2

2、義兄の金鵄勲章

戦争を語り継ぐ(2)

義兄の金鵄勲章(きんし くんしょう)

 この話は、私の養子先、義兄一家の実録である。
「昭和十三年八月二十日 中支那大湖県ニテ原田早巳男伍長勤務上等兵 戦死ス」という公報が熊本県天草の叔父の家に届いた。
 1937(昭和12)年7月に始まった北支事変は、熊本の軍隊で現役除隊の予定だった従兄を「支那事変」に巻き込んだ。杭州湾に上陸、南京占領のあと漢口攻略の途上であった。

義兄の金鵄勲章功六級で金色だったが、
焼けたので、この写真は功七級の銀色。

 村では二番目の戦死者で、秋になって白木の箱に入った遺骨に金鵄勲章が添えられていた。激しい戦闘で先頭に立って突撃の勲功が認められ二階級特進で曹長の位が贈られた。仏間の鴨居の上には陸軍曹長原田早巳男の軍服姿が飾られ、仏壇には恩賜金の額とともに金鵄勲章が供えられていた。金色に輝く功六級であった。村人は下士官に贈られる功六級という金鵄勲章の輝きに見とれ、村の名誉と絶賛した。

 村葬は小学校の校庭で盛大に行われ、葬式の列で私は遺影を掲げ持って一族として参加した。墓地に向かう沿道でも多く女子青年団員や村民が涙ながらに手を合わせて見送った。
 墓地では墓穴のまわりに親戚と村役だけが立ち会い土をかけた。そのとき突然、叔母は墓穴に飛び降り、棺桶にすがりつき、「サミオ、サミオどうして死んだ、どうして死んだ」と哭き叫んだ。それまで涙を見せまいと我慢してきた叔母のなげきに親戚中がその場に伏せてむせび泣きした。

 葬儀のあと、寝込んだ叔母はついに起きあがることなく半年後に亡くなった。叔父は一人息子と妻を失って気が抜けたようになり、仕事も手につかなかった。

 一人息子を失った叔父の要請で私は養子になって同居し、農業学校にもその家から通った。やがて私は上京し、飛行機工場に徴用、一九歳で航空隊に入隊したた。やがて敗戦。

 叔父・養父は一人で農業を続けていた。戦時中は遺族の田植えなど手伝いに来てくれる人もあったが、人手の足りない田畑は地主に返し、戦後の農地改革の恩恵にも預からなかった。戦死者に贈られた恩賜金一千円の分割国債は戦後のインフレで無価値になった。

 叔父は失意の中に病気になり、入院中の留守宅は火災に遭った。恩賜金や金鵄勲章が羨ましくて放火されたのではという疑いもあったが、確証は無かった。

 息子の軍服姿の写真も仏壇も何もかも焼けてしまった。叔父の退院後、私も手伝って、後片ずけをしていたが、仏壇の跡から金鵄勲章が出てきた。外箱は燃えて無くなり、盾と剣(つるぎ)を組み合わせた意匠の金色は緑青に変わり果て、メッキが剥げて、半分めくれていた。

 その下から、鉛が溶け出していた。鉛の勲章であった。

(注)金鵄勲章は陸海軍人に天皇が与える勲章で日清・日露戦争の時から軍人の名誉心をそそるものであった。生存者には年金が功7級で100円ついた。明治時代は大きな金額であった。大将になれば功1級で1300円大きな差であった。第二次世界大戦後は廃止されたが総数10万8652人が受章した。
(その3に続く)


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