|
1、私はこうして軍国少年になった
戦争を語り継ぐ(1)
私はこうして軍国少年になった
 |
1931(昭和6)年、小学校1年入学時の原田勉、前から2列目左端。
多くが和服、55人中洋服は14人。履き物は殆どが下駄。
半農半漁の貧しい村の子弟だった。 |
私は1925(大正14)年、熊本県の農村に生まれた。満年齢は昭和の年号と同じ、もの心のついた8歳は昭和8年。小学校の2年生、その年の3月、父は保険金自殺した。その前年長兄は結核病死。跡に残されたのは母と兄弟姉妹5人であった。その貧しさが私を軍国少年に育てていった。
すでに昭和6年9月に満州事変が起こり、翌年には満州国が建国していた。昭和7年の5・15事件が起こった。決起した青年将校は、その動機に貧しい農民の窮状を愁い、また軍人以外に農民決死隊が加わっていた。農村では青年将校の考えに同調するものが多った。続いて起こった11年の2・26事件には郷土出身の士官候補生が加わったていたこともあって一層軍隊によって国政を動かさねばならないという考えが強まってきた。私の村では半農半漁の貧しい子弟にとって軍隊に入ることが、その窮状から抜け出る道でもあった。適齢前の18歳で志願して陸海軍に入隊するもの多く、こうした大人たちの軍国主義的風潮は少年の心にも伝わって私も早く一人前になって軍隊に入ることを目指していた。
 |
小学4年生、11歳。
初めて一人で写真に写って贅沢したと叱られた。 |
昭和10年、5年生になって、次三男が進路を決める歳になった。兄は私に陸軍幼年学校を勧めたが、近眼になっていたので諦めた。中学校進学は家庭の貧困が許さなかった。自分では満蒙開拓青少年義勇隊の志願を考えていた。高等科に進み、級長になった。12年蘆溝橋事件が勃発し日中戦争が始まった。この頃から小学校でも体操の時間は軍事教練のようになり、歩兵銃の扱い方も教わった。運動会では閲兵分列行進があり、級長は指揮官の訓練を受けた。私は剣道部の主将になり、寒稽古もやった。
13年には全校生徒700人の指揮を高等科2年の級長がする教練があった。7月次兄・卯三男が陸軍に召集され熊本の歩兵13連隊に入隊した。同年8月、従兄の原田早巳男が中国・漢口攻略戦で戦死し、10月には村葬が行われた。一人息子だったため、私は身内の一人として遺影を掲げて参列した。従兄の仇はぜひ討たねばならぬと敵愾心が起きた。従兄の戦死後、私は跡継ぎの養子になった。
14年、県立農業学校に進学し、配属将校から軍事教練を受けるのが正課になった。当時の中等学校には兵器庫があり、三八式歩兵銃、サーベルなど揃っていた。実弾射撃訓練もあり、秋期検閲連合演習が熊本平野で行われ、それに参加した。クラブは剣道部に入り、武徳会初段を修得した。
 |
| 高等科で剣道部に入り軍国少年の途を進む。 |
軍事教練には進んで参加し、将校になる途を選んだ。中等学校の教練は後の項で述べるが、16年12月には太平洋戦争が始まり、戦時の実業学校は卒業繰り上げで12月に卒業した(その2に続く)。
参考資料:近藤康男著『昭和ひとけたの時代』農文協、
上笙一郎著『満蒙開拓青少年義勇軍』中公新書
大江志乃夫著『徴兵制』岩波新書
|